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以前、コメントに「歴史に関しての見解を聞きたい」というコメントがあったので、今日は真面目にその話をしてみたいと思います。あー、今までこんなに真面目なことをブログに書いてなかったので、いきなり浮いちゃうかもしれないけどあしからず。ああ、今までの話がくだらない…
前置きはこの辺でいいとして、「歴史に関しての見解」ですが古代を中心に書きたいと思います。歴史というものは大きく分けてまず2つあります。1つは文章として残る歴史。もう1つは物として残る歴史です。前者のほうを勉強するのは歴史学、後者のほうを勉強するのが考古学です。そして日本古代は、中国の歴史書を頼りに日本で出てくる物で歴史を見ます。日本のこの段階で、歴史書があるのは中国人が歴史を書き残すことが好きだったおかげでもあるのです。普通だったらありません。ここは中国に感謝してもいいところだと思います。ただ、歴史書というものは書いた時代にいいように前の時代を書いているものです。また、その時代の用語がいまだに判明していないものもあります。例えば、「生口」。一応今の見解では奴隷としていますが、奴隷ではないという見解もあります。(うろ覚えなのであやふやですが)また、日本のことなのであまり詳しくは書かれていません。なので、歴史書だけをそのまま信用するわけにはいきません。そこで考古学で発掘されたものと照らし合わせることが重要です。そこで代表的なのが、「漢奴倭国王」の金印です。これは、歴史書の方にも物としても存在するものです。ここでようやくその時代にこういうことが起こったと、はっきりと言えるわけです。もちろんどちらかが欠けてる場合もあります。歴史書だけしかない場合は、本当にあったものかどうか信憑性にかけることもあります。物だけの場合は、確かにそこで人々が暮らしてたかもしれませんが、どういう人がいたのかは分かりません。歴史というものはあやふやです。誰もその時代のものを今の人は見ていないからです。想像の部分も多々ありますが、物を細かく調べてどこと交易していたかを知ることもできます。土器や鏡などの制作年代や、土や鉱石、土器や鏡の柄の種類で知ることができます。なので歴史というものは、限りなくノンフィクションに近いフィクションだと私は思ってます。これは、いつの時代でも言える事だと思います。
話は少し変わるのですが、私が歴史好きになったのはある本をきっかけとして好きになりました。すごい本ではありません。人が見ればそんなもので、と思うかもしれません。しかしその当時私はすごくはまっていました。それは、私が中学校の時に週刊少年ジャンプで連載をしていた「邪馬台幻想記」です。作者は矢吹健太郎先生です。これは人気がなかったためかすぐ打ち切りにはなりましたが、私はいたく感動しました。今読み返せば、時代考察はめちゃくちゃではあるのですが、ヒロインを卑弥呼ではなく、マイナーな壱与(台与という説もある)を使い、その身の回りの世話を卑弥呼の時代の大夫だった難升米(ナシメ)を使っていました。また、国の名前もちゃんと現在あるとされているものを使っていました。知らない人は知りませんが、知ってる人は少しうれしくなるというものです。一応、作品中に地図が出てきましたが、はっきりとは書かれていませんが邪馬台国を九州説として捉えているようです。内容は、少年漫画にありがちな魔法(氣)を使って、伝説の聖地「高天の都」を目指すというものです。もちろんこれはフィクションですが、その当時魔法と思われていたものを使って国を治めていく(例えば鏡の光の屈折を利用するなど)という意味ではノンフィクションかもしれません。つまり、その頃の時代というものはそういう時代だということです。つい最近読んだ本は、「古鏡」で著者は小林行雄先生です。この本は銅鏡についてなのですが、とても勉強になりました。そして何より分かりやすい文章なので私でも読めました。読んでみたい方にはお勧めです。
歴史についての見解はこれでよろしいですか?つたない文章ですみません。
早々の見解ありがとうございました。
こんなに丁寧に答えて下さって、変な質問の張本人として深謝しています。
人間業の先輩として、打てば即響いた紫鈴さんの成長した姿が楽しみです。
私は、人間の本質は古今変わらないとみています。
従って、歴史は繰り返すと信じています。
そこに歴史を学ぶ意義があると考えています。
時の為政者が作り出した「虚構」を見ることができるのも、歴史に造詣が深ければこそと思っています。
それを担うのが、まさに紫鈴さん達だろうと想像しています。